さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

モバイルファーストだよね

以前はブログや文章量の多いものを書く時はもっぱらPCを使っていました。

 

ですが、このブログを始めてからはほぼスマホから投稿しています。

 

一応IT系の端くれなので、HTMLも書けるんですけど、そもそもスマホユーザーのが圧倒的に多いのに装飾とか邪魔なだけに感じてしまい、一切使っていません。

 

文章を書くのも、今やスマホの方が速いんですよね。

 

予測変換がスマホの方が優秀なので。

 

今後やるかわかりませんが、以前やっていたようなディスクレビュー記事なんかを書くならPCから書くことになると思うんですが、今のところスマホからで不便を感じません。

 

先程も書きましたが、個人的にスマホから見るならシンプルな見た目が一番いいし、よくわからない装飾はうっとおしいと思うんですね。

 

全世界的にそのトレンドは進行してるようなので、まぁ今後はコンテンツの中身がすごく大事になってくると思うのですよ。

 

そして、スマホっていうデバイスをみんなが持つことによって、読まれる文章量も物凄く多くなっていると思うんですね。

 

つまり、目が肥えていくと。

 

少ない情報量のものを大量に処理するのが今のトレンドではありますが、他方ではNewsPicks等をみても、それなりに大きい情報にニーズがあるのは間違いないわけです。

 

シェアし、評価するというのは既に文化となっている中で、質の低いものは純粋に淘汰されるのだろうと、筆者は考えるわけです。

 

コンテンツの中身、質の部分が、モバイルファーストの本質である、と。

 

アフィリエイトなのかアクセスを稼ぎたいのかよくわからない記事なんかはもう見るに耐えれないんですよね。

 

今後のアイディアはいくつかあるんですが、やはり有益な情報であること、インタラスティングな情報であること、そしてタイムリーであることを意識して書きたいです。

 

ディスクレビューなんかタイムリーじゃないと思うかもしれないんですけど、今やストリーミングの時代です。

 

目の前には恐ろしい数の音楽があるわけです。

 

そこには時系列とか関係ないんですよね。

 

つまり、聴こうとした時が丁度タイムリーなタイミングなんですね。

 

だから多分昔のブログのヒット数がずっと落ちないんだろうなって思うんですよ。

 

あと、やりたいなと思ってるのは、筆者が生息している木屋町界隈のBARの紹介です。

 

飲みに出たタイミングで、スマホから情報を探している、そういうタイミングで便利じゃないかなと。

 

そして、完全に個人でやってるので、主観は入っても営利目的ではない、ってのがポイントです。

 

ネットで探して出てくるやつはちゃんと広告料払ってるのが殆どですからね。

 

まだまだ飲み屋さんも捨てたもんじゃないってのが伝わればいいですね。

 

 

話が逸れましたが、発信したいことのクオリティを上げていきたいなって話でした。

 

ぼちぼちがんばります。

 

PS4を買うしかない

FF7リメイクの発売日が遂に決定しました。

 

色々と気になることはありますが、速攻で予約をしましたね。

 

そこで、はたと気づいたのです。

 

PS4、持ってない。

 

なるほど、なるほど。

 

これはPS4を買うしかないわけです。

 

 

 

FF7が出た当時、筆者は中学一年生でした。

 

ミッドガルの遠景からのタイトルバックからの走り込んでくる列車からのゲームスタートに度肝を抜かれ、エアリスの死に衝撃を受け、チョコボの育成に汗を流し、超究武神覇斬のカッコ良さに酔いしれた、私の厨二観の全てがFF7に詰まっていると言っても過言ではありません。

 

暗めのストーリー展開、シリアスなのにどこかコミカルなセリフ回し、最終的に素直になる主人公。

 

まさに90sシンドロームの集大成だったのではないでしょうか。

 

そんな筆者なもので、ゲームというものに久しぶりにワクワクしているのです。

 

 

 

そこで、どうせPS4買うなら、せっかくだから何個かゲームもやってみたい、そう考えたわけです。

 

最後に自分で買った(買ってもらった)のは初代PS。

 

マトモにやってたのはPS2まで。

 

一昨年ぐらいに弟に誘われてFF14はやっていたけど、半年過ぎても初心者マークが取れない程度にしか触っていませんでした。

 

つまり何が言いたいかというと。

 

この高度情報化社会において、一体何を参考にPS4のゲーム情報を得れば良いのかわからないという事態に陥っているわけです。

 

独自のルート(犬マユゲでいこう)からの情報では、恐らくゲームの本質の方は掴めないのですよ。

 

とりあえずいくつか気になったのは、

 

絶体絶命都市

 

・巨影都市

 

・シティースカイライン

 

と、何故だか知らんけど都市絡みばっかりなのです。

 

これは一体どういうことなのか。

 

ロートルはとりあえずドラクエでもやっとけということなのでしょうか。

 

そもそも、PS4も色々あるようで、どれを買っとけばいいのかもよくわからない。

 

圧倒的な情弱。

 

圧倒的なおっさん感。

 

得意じゃない分野ではここまでの劣勢なのか。

 

いや。

 

まだ諦める時間じゃない。

 

退かぬ!媚びぬ!省みぬ!

 

仮にもIT系の人な筆者が、ネット弱者のポジションで甘んじていいはずもありません。

 

ネットの力を、使ってやる........!

 

 

 

ということで、何かいい感じにPS4のこと教えてください。

 

面白そうなゲームの情報も待ってまーす。

 

 

 

R.I.P.

Facebookを開くと気分が沈みます。

 

Jun greenという、京都の音楽業界ではちょっと知られたおじさんが亡くなられて、色んな方が死を悼むコメントを書き込まれているのが目に入るからです。

 

出会ったのはまだ19くらいの頃なので、もう16年も経つってことですね。

 

本当にパワーのあるおっさんで、殺しても死なへんような人でした。

 

音楽をやってきた中で、サイコキの最初の一歩を後押ししてくれたのは間違いなくJunさんでした。

 

色々と関わる中で大変なこととか、キツいこともあったけど、自分にとっては概ねそういう存在でした。

 

Junさんがいなかったら、出会えてないであろう人はめちゃくちゃ沢山いて、僕の人生の幅を物凄く広げてくれたと思います。

 

最後に一緒に演奏したのは一年半ぐらい前で、最後にお会いしたのは2週間ぐらい前でした。

 

その変わりように、覚悟はしてました。

 

でもやっぱ早いですよ。

 

こういう時に、バンドをやっていないと、大きな声で叫ぶ場所もないんやなって、初めてわかった。

 

ほんま、死んでからもそういうの教えてくれんねやって感じっす。

 

酔っ払ってめんどくさいことも多かったけど、今でもずっと覚えてることもあります。

 

全然金がない頃に飲みに連れてって貰った時。

 

俺がお前が食えへんようなもん食わしたる、飲ましたる、だからお前はお前の後輩に同じことをしてやれ、て言われたんですね。

 

ああそうか、そうしようって。

 

思ったのはずっと忘れれないっすね。

 

 

 

あー、Junさんが好みそうな企画やらなあかんなぁ。

 

誰か音頭取ってくださいね(笑)

 

 

 

 

緑のおっさん、ちょっと早いで、やっぱ。

 

でも、とりあえず。

 

お疲れ様でした。

 

お世話になりました。

 

ありがとうございました。

 

優しさはいらない

なんだか本当に色々なことが優しくなりました。

 

易しいんですよ。

 

こんな簡単な世界、おもしろいですか?

 

僕はあんまり楽しくないです。

 

本当に不必要、過剰なぐらいに優しい。

 

その結果、易しい。

 

パワハラモラハラ、確かに気分が悪いです。

 

でも、悔しくもないことを僕は全然頑張れない。

 

先輩に色々言われたかったし、それが的外れでない人に着いていこうって思ってました。

 

違うって思ったら反論すればいいだけで、何なら戦いになっても全然良かった。

 

僕は根本的に戦闘民族なので、そういう生き方が好きなんです。

 

もちろん、自分がマイノリティなのは知ってるいるので、もうそんなことはしません。

 

この世界のトレンドは、優しく、易しいですから。

 

でもね、それでも言いたい。

 

他人がそれでいいんだよ、と言ったからといって、本当にいいことなんて殆ど無いんです。

 

悔しくて悔しくて、夜も寝れないから努力して、それでも才能があって努力を止めないヤツに勝てなくて、だからまた悔しくてのループが、自分の限界を超えてく唯一の環境なんです。

 

セーフティネットの拡充が、社会の発展には必須です。

 

身体が不自由な人への配慮だって、高齢者や子供達が生きやすいシステムだって、絶対に必要です。

 

でも、僕は何も不自由じゃない。

 

身体も心も健康です。

 

人より強いぐらいです。

 

何なら平均的な人より勉強もできたし、ついでにイケメンです。

 

優しさの押し売りは傷の舐め合いにしか見えないし、押し売ってくるやつと同じレベルに思われるのが不愉快だし気持ち悪いです。

 

逆境や重圧と戦ってきたから成長できた、その自覚があるし、そういうのから逃げるのが本当に悔しくて嫌なんです。

 

もっと言えば、出来ないことを悔しく思う気持ちが否定されることにも耐えられない。

 

陸上競技に打ち込む人に、君の物理的限界はここだよ、それでいいんだよって言えますか。

 

僕はそんなこと口が裂けても言えません。

 

絶対に出来ないからって、悔しく思わなくていいわけじゃない。

 

もうちょっと言います。

 

酒の強要は犯罪だ!なんてツイートもよく見かけます。

 

確かにそこにこだわりのない人にはそれでいいし、救いになるでしょう。

 

でも、そこに拘りがあるなら、飲めないことを悔しく思えばいいんです。

 

人が飲める量は、個人差があり、限界がある。

 

それでも悔しいものは悔しい。

 

それでいいんですよ。

 

自分を無理矢理納得させなくていい。

 

色んな分野で、弱者に対する配慮は必要です。

 

でも、僕にはいらない。

 

僕は弱者じゃない。

 

大概の問題を解決する強さがあります。

 

そういう人は結構いるはずです。

 

そういうやつらと、僕は血が流れるくらいにやりあいたい。

 

遊び相手も、遊び仲間も、そういうやつらが一番楽しい。

 

何の利益にもならないことに、必死になって、熱い気持ちになりたい。

 

向上心と好奇心を、失いたくない。

 

自分の心の弱さに負けたくない。

 

僕は自分より強いやつらの中にいたいんです。

 

優しさの同調圧力はもういらない。

 

不良品の矜恃

川崎殺傷事件での犯人がどういった人間であったかが世間を賑わしています。

 

結論から言えば、不良品なんですよ。

 

僕もそうなので。

 

この社会というシステムと、自分という生き物の特性がそもそも合ってない。

 

良/不良という価値は、社会が決定するんです。

 

環境と言い換えても良い。

 

だから、僕らは不良品なんです。

 

現在の社会を維持したり、発展させる方向の才能が余り無い。

 

僕は学生の頃に、死ぬか、捕まるか、ロックしてるか、本当にそうだと思っていました。

 

35歳の今も、そう感じます。

 

何かが間違えば、僕は死んだり捕まったりするでしょう。

 

それぐらい、あまりに僕ら不良品は世間との価値観から乖離している。

 

乖離し過ぎているんですよ。

 

僕のように、たまたま世間の中で居場所を作れる程度の能力があれば、まだ生きていくことは可能です。

 

もちろん無理はしていますよ。

 

よくこの感じを例えるのですが、巨乳好きに巨乳を好きでいることをやめろといっても、本能の部分が求めるものを理性が否定することはとてつもない苦痛を伴うし、絶対に否定しきることはできないでしょう。

 

どこかに歪みが生まれます。

 

その歪みが、これまた社会の規定する犯罪的な部分に生まれてしまった時に、事件になる。

 

ただ、それだけのことです。

 

被害者の方がいて、それが何の理由もなく害されてしまったことには、怒りよりも悔しさを覚えます。

 

嫌悪感すら感じます。

 

不良品は、不良品同士でも相容れません。

 

僕が自分以外の不良品と出会った時、好意的である確率は半々ぐらいです。

 

不良品のフリをした良品もたくさんいますし。

 

彼らは自らの不出来に理由が欲しくてそう振る舞うだけです。

 

また、本当の孤独を知りません。

 

孤独は自由の絶対条件ですが、孤独でいることもこの社会はまた否定的です。

 

しかし、不良品は本来的に孤独と共にあります。

 

つまり、不良品はこういった側面でも社会から否定されている。

 

だから、僕らは社会を否定している。

 

それはずっとです。

 

35歳の今も、僕は社会の方が不良品だと思います。

 

だからこの社会をぶっ壊したかった。

 

だからギターを弾いていました。

 

今もまだ、舐めんなよ、って気持ちは失ってません。

 

気持ちの悪さも無くなっていません。

 

顔に出したり、言葉にしなくなっただけです。

 

ちょっとだけ疲れたのかもしれません。

 

それなりにがんばってきたので。

 

だから、とりあえず不良品の自覚が持てたら、音楽を聴くといいです。

 

そして、ギターを弾くといい。

 

ステージの上では、人は自由になれます。

 

一度そこを知ったら、多分大丈夫。

 

この社会をぶっ壊そうと企みながら、なんとなく社会の中で居場所を作る術を得れると思います。

 

少年よ、ギターを取れ。

 

ギターで人は殺せるぞ。

「平成ゴジラ」の時代感覚

Amazon primeビデオでゴジラシリーズが観れるようになっています。

 

ノスタルジーに駆られて「ゴジラvsキングギドラ」を観ました。

 

1991年、筆者が小学一年生の年です。

 

今から28年前、平成の初頭。

 

昭和の残り香が色濃い、バブルの頃のお話です。

 

戦争に行った人がまだ現役で働いていて、ビキニ環礁の水爆実験をみんなが知っている。

 

そんな時代。

 

平成ゴジラは、昭和ゴジラよりも設定されるターゲットが少し上に広がっていると思われます。

 

それはある程度のリアリティを担保しようとする姿勢に繋がります。

 

ファミリー層の親世代が懐かしさだけでない楽しみ方をする必要があったからなのでしょう。

 

この要件は名探偵コナンの映画やクレヨンしんちゃんの映画に通じるものがあります。

 

話がズレましたね。

 

リアリティを求めると、やはり時代感覚を反映させる必要があるのでしょう。

 

最近観た、どんな映画よりも「この頃」感を感じました。

 

それは自分が幼い頃に感じていた感覚が蘇ったからかもしれません。

 

常々思うことですが、映画には、当時の時代感覚を感じられない人には伝わらないモノがあるのではないでしょうか。

 

シン・ゴジラが海外でウケきらなかったのは、間違いなく2016年当時の日本人が共通して持っていた、東日本大震災に対する感覚を抉ったこと、そのオマージュをゴジラとして登場させ、そして打ち勝つプロセスを描いたことで、日本人の心を掴んだ、その感傷的な部分が、海外では共有出来なかったからであると筆者は考えています。

 

戦争と核兵器のオマージュであったゴジラは、恐らく時代の流れと共に痛みや熱を肌感覚に伝えにくくなっていたことが、「ゴジラvsキングギドラ」から透けて見えていました。

 

その為の方法論が、キングギドラのリアリティに直結している、と。

 

それが一体何を指すのか?

 

もしかしたら、時代が感じる痛み、恐怖こそが時代感覚を最も端的に表しているのかもしれません。

 

たった30年で、キングギドラのバックグラウンドになる、未来のイメージは変わってしまいました。

 

今この時代では、昭和の時代に出てくる宇宙人や怪物は恐怖の対象ではありません。

 

平成の時代に出てくる未来人も、やはり我々の心に恐怖というリアリティを構築しきれない。

 

あと30年もすれば、災害すら恐怖として感じることはなくなるかもしれない。

 

次の世代の「ゴジラ」は、一体何を背負って街を破壊するのでしょうか。

 

恐怖の対象を探すことが、次世代のカタルシスへと繋がる早道なのかもしれません。

 

さて、次はどのゴジラを観ようかな。

 

やっぱりキングギドラ繋がりで地球最大の決戦でしょうか。

はじめます。

知ってる人はこんにちは。知らない人は初めまして。

 

ちょっと久しぶりに纏まった量の文章を書ける場所が欲しくて、久しぶりにブログを始めます。

 

Twitter、インスタなど、情報量の少ない媒体がスタンダードなツールになる中で、本当に言いたいことや発信したいことがちゃんと表現できない環境につまらなさを感じています。

 

日々感じる事、思う事を雑多に集めて書いていきます。

 

暇つぶしになればいいなと思います。

 

しくよろ。