さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

JOKERとTHE KING OF COMEDY

先日、JOKERを観ました。

 

社会が人を狂わせる映画、と言えるかとおもいます。

 

人の在り方に対して、社会は一定の力で形を決めようしてきます。

 

形を保たないものはコントロール出来ないからです。

 

人が社会に狂わされていく様を観て、どことなくマーティン・スコセッシ監督のキングオブコメディを連想しました。

 

こちらは、狂った人間が社会に対して脅威となる様を観せてくれる映画です。

 

この2つの映画の差分は、はっきり人と社会の関わりが変化したことを示唆していると思います。

 

つまり、ほんの30年ほど前までは、おそらく常識とか当たり前とか、そういった目に見えず明文化されていないものをふわっと共有し、なのに大上段に構えて人が人を否定していたということだと思います。

 

環境や風習や宗教や歴史で、常識とか当たり前という感覚、モノサシは全く違ってきます。

 

それが、情報化が進んだことで加速し、個人レベルで違ってきている。

 

つまり、環境が個人によって全く違う。

 

時として歴史も、その解釈が全く違っている。

 

そんな社会で、我々は本当に狂った人間を識別出来るのでしょうか。

 

もちろん、互いが互いに違うということを受け入れるための、メンタリティのマージンやリスクヘッジを取るということを皆がしていると思います。

 

だけれど、他者を否定するということがどれだけ人を追い詰め、殺していき、狂わせるのかということにもっと危機感を持つ必要がある。

 

狂ったように見える人間は、まず間違いなく欲望や本能にダイレクトな行動をとる人間です。

 

追い詰められた人は本能で身を守る。

 

これを読んでる方にも、本能と社会性が軋む音が聞こえるでしょう。

 

それは悲鳴であり、あなたを否定する社会の声です。

 

人には否定された本能や欲望や感覚を肯定してくれる空間や人が必要なんです。

 

実体のない虚構であっても、心が満たされればそれで問題ないんです。

 

肉体は精神のインターフェースでしかないから。

 

本当に狂った人間が狂った行動を取るのは、滅多にありませんが、一つの事象が社会に対して深刻なダメージを与える可能性は往々にしてあります。

 

それまでに、社会は心に対するセーフティネットを準備する必要があります。

 

狂った人間とは、狂ったように見えるだけの、自分と何ら変わらない同じ人間でしかないからです。

 

自分が常識的な人間であると自信があるとしても、社会の構造が違う場所へ行けば狂人として扱われるってことぐらいは想像出来ますよね。

 

そういう意味では、世界に先駆けて情報化と高齢化が進んでいる日本は、一番狂ってるやつが多いと言えると思います。

 

クソジジイどもは被害者ヅラする前に、加害者である自覚を持てよ。