さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

差別について

昨今話題になっている差別について書きたいと思います。

 

まず、話をどういう観点・意味でしているのか明白にしたいので、僕のスタンスから書きますね。

 

僕は本当に他人に興味がありません。

 

皮膚の外側のありとあらゆることに、根本的に興味が持てない、いわゆるソシオパスな人です。

 

ですので、ありとあらゆる事象への捉え方が、自分(皮膚の内側)にとってどうなのか?という観点になってしまいがちです。

 

これは社会性の欠如という形で集団の中での生活で軋轢を生むわけです。

 

ルールの必要性を理解できない、他者の感情にコミットする必要性を感じれない等です。

 

結果、自分に対する他者評価を余りにも気にする必要がない、と早々に判断してしまったんですね。

 

形骸化したルールの無価値さや、無知で無能な人間の無価値さをわりと人生の序盤で断定してしまったというか。

 

大人になるに連れて、パブリックイメージの構築が必要不可欠であったから、色んなことを後天的に学び、社会におけるポジションを得たわけです。

 

で、です。

 

ここまで書けば大体わかると思うのですが、こんなやつには周りからのバッシングっていうのが起こるんですよ。

 

それはつまり、異質なものを排除するという、本能的な防衛反応だと思います。

 

ただただ僕がそういうものに価値を感じなくて、音量やトーンや表情や人数の大小に興味が持てず、その言葉の本質しか追いかけないという特殊な癖を持っていたので、気にならなかっただけなんですよ。

 

つまり、嫉妬や恐怖があるのだな、と。

 

僕に対して、でもあるし、僕の向こうにある何かに対して、でもあるわけです。

 

つまり、今や社会において強者のポジションの僕ですが、被差別側のポジションだったんですね。

 

けどね、例えば白人と黒人の間で起こることってのは、そのレベルじゃないんですよ。

 

はっきり言えば無知で無能なやつなんか基本無視で相手にしなくていいし、必要なら社会的に圧倒してマウント取って黙らせればいいんですけど、そういうレベルじゃない、もっともっと野蛮なやつらがめちゃめちゃ沢山いるってことなんですよ。

 

無知で無能な人間が武装して治安維持をやってる。

 

肌の色が違うと全く違う動物だと思ってるやつが、嫉妬や恐怖ってモノサシで生きてるんですよ。

 

知らないものへの恐怖、違うことの恐怖。

 

これは人間が自然界で優位性を保つために必要なことでした。

 

多分、遺伝子に刻まれてる。

 

僕みたいなぶっ壊ればっかだと、すぐに北斗の拳みたいな世界になってしまうんすよ。

 

日本に住んでると、自分達が被差別側ってこと忘れがちですけど、周りと違うってのを理由にして差別化し、排除しようとするムーブってごく普通にやってるし、きっと黒人社会の中でも同じことは起こってる。

 

根源的な問題は同じ、嫉妬や恐怖だから。

 

なんで、とりあえず、こういう問題を考える時に、無知で無能なやつらは、もう一旦無視しましょう。

 

余りにも話が進まな過ぎるし。

 

それから、自分の心の中にある、本能的な拒否感とか、恐怖心を、一旦肯定しましょう。

 

だって仕方がないからです。

 

その上で、社会で何が起こっていて、それに対する自分のスタンスをどうするのか、決めましょうよ。

 

どうしても無理、嫌、気持ち悪いって人は、絶対いると思います。

 

それを理性や理論で、少なくとも表に出さないくらいまでは持っていってください。

 

別に、人種に対する差別の話だけじゃないんすよ。

 

いじめとか、そんなのを大人になってもやってるやつは、根本的にアタマかココロのよえーやつだしだし、嫉妬や恐怖にかられて行動しちゃうような自制の効かないやつと仕事したり生活したりするのがマジで不愉快だからです。

 

よろしくお願いします。

 

 

 

P.S.

 

で、やっぱ本能や心を理性で押さえつけるとしんどいでしょ。

 

無理し続けることはストレスなんですよ。

 

そうなったら、京都の木屋町に来て、テキーラをしこたま飲んでください。

 

夜の街は酔っ払いの戯言にはとても寛容です。

 

金払いと飲み方さえ良ければ、わりと許容してくれるんで。