さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

不良品の矜恃

川崎殺傷事件での犯人がどういった人間であったかが世間を賑わしています。

 

結論から言えば、不良品なんですよ。

 

僕もそうなので。

 

この社会というシステムと、自分という生き物の特性がそもそも合ってない。

 

良/不良という価値は、社会が決定するんです。

 

環境と言い換えても良い。

 

だから、僕らは不良品なんです。

 

現在の社会を維持したり、発展させる方向の才能が余り無い。

 

僕は学生の頃に、死ぬか、捕まるか、ロックしてるか、本当にそうだと思っていました。

 

35歳の今も、そう感じます。

 

何かが間違えば、僕は死んだり捕まったりするでしょう。

 

それぐらい、あまりに僕ら不良品は世間との価値観から乖離している。

 

乖離し過ぎているんですよ。

 

僕のように、たまたま世間の中で居場所を作れる程度の能力があれば、まだ生きていくことは可能です。

 

もちろん無理はしていますよ。

 

よくこの感じを例えるのですが、巨乳好きに巨乳を好きでいることをやめろといっても、本能の部分が求めるものを理性が否定することはとてつもない苦痛を伴うし、絶対に否定しきることはできないでしょう。

 

どこかに歪みが生まれます。

 

その歪みが、これまた社会の規定する犯罪的な部分に生まれてしまった時に、事件になる。

 

ただ、それだけのことです。

 

被害者の方がいて、それが何の理由もなく害されてしまったことには、怒りよりも悔しさを覚えます。

 

嫌悪感すら感じます。

 

不良品は、不良品同士でも相容れません。

 

僕が自分以外の不良品と出会った時、好意的である確率は半々ぐらいです。

 

不良品のフリをした良品もたくさんいますし。

 

彼らは自らの不出来に理由が欲しくてそう振る舞うだけです。

 

また、本当の孤独を知りません。

 

孤独は自由の絶対条件ですが、孤独でいることもこの社会はまた否定的です。

 

しかし、不良品は本来的に孤独と共にあります。

 

つまり、不良品はこういった側面でも社会から否定されている。

 

だから、僕らは社会を否定している。

 

それはずっとです。

 

35歳の今も、僕は社会の方が不良品だと思います。

 

だからこの社会をぶっ壊したかった。

 

だからギターを弾いていました。

 

今もまだ、舐めんなよ、って気持ちは失ってません。

 

気持ちの悪さも無くなっていません。

 

顔に出したり、言葉にしなくなっただけです。

 

ちょっとだけ疲れたのかもしれません。

 

それなりにがんばってきたので。

 

だから、とりあえず不良品の自覚が持てたら、音楽を聴くといいです。

 

そして、ギターを弾くといい。

 

ステージの上では、人は自由になれます。

 

一度そこを知ったら、多分大丈夫。

 

この社会をぶっ壊そうと企みながら、なんとなく社会の中で居場所を作る術を得れると思います。

 

少年よ、ギターを取れ。

 

ギターで人は殺せるぞ。