さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

「平成ゴジラ」の時代感覚

Amazon primeビデオでゴジラシリーズが観れるようになっています。

 

ノスタルジーに駆られて「ゴジラvsキングギドラ」を観ました。

 

1991年、筆者が小学一年生の年です。

 

今から28年前、平成の初頭。

 

昭和の残り香が色濃い、バブルの頃のお話です。

 

戦争に行った人がまだ現役で働いていて、ビキニ環礁の水爆実験をみんなが知っている。

 

そんな時代。

 

平成ゴジラは、昭和ゴジラよりも設定されるターゲットが少し上に広がっていると思われます。

 

それはある程度のリアリティを担保しようとする姿勢に繋がります。

 

ファミリー層の親世代が懐かしさだけでない楽しみ方をする必要があったからなのでしょう。

 

この要件は名探偵コナンの映画やクレヨンしんちゃんの映画に通じるものがあります。

 

話がズレましたね。

 

リアリティを求めると、やはり時代感覚を反映させる必要があるのでしょう。

 

最近観た、どんな映画よりも「この頃」感を感じました。

 

それは自分が幼い頃に感じていた感覚が蘇ったからかもしれません。

 

常々思うことですが、映画には、当時の時代感覚を感じられない人には伝わらないモノがあるのではないでしょうか。

 

シン・ゴジラが海外でウケきらなかったのは、間違いなく2016年当時の日本人が共通して持っていた、東日本大震災に対する感覚を抉ったこと、そのオマージュをゴジラとして登場させ、そして打ち勝つプロセスを描いたことで、日本人の心を掴んだ、その感傷的な部分が、海外では共有出来なかったからであると筆者は考えています。

 

戦争と核兵器のオマージュであったゴジラは、恐らく時代の流れと共に痛みや熱を肌感覚に伝えにくくなっていたことが、「ゴジラvsキングギドラ」から透けて見えていました。

 

その為の方法論が、キングギドラのリアリティに直結している、と。

 

それが一体何を指すのか?

 

もしかしたら、時代が感じる痛み、恐怖こそが時代感覚を最も端的に表しているのかもしれません。

 

たった30年で、キングギドラのバックグラウンドになる、未来のイメージは変わってしまいました。

 

今この時代では、昭和の時代に出てくる宇宙人や怪物は恐怖の対象ではありません。

 

平成の時代に出てくる未来人も、やはり我々の心に恐怖というリアリティを構築しきれない。

 

あと30年もすれば、災害すら恐怖として感じることはなくなるかもしれない。

 

次の世代の「ゴジラ」は、一体何を背負って街を破壊するのでしょうか。

 

恐怖の対象を探すことが、次世代のカタルシスへと繋がる早道なのかもしれません。

 

さて、次はどのゴジラを観ようかな。

 

やっぱりキングギドラ繋がりで地球最大の決戦でしょうか。