本質だけでは生きられないけど
何年か前から、色々興味があって伝統芸能と呼ばれるものを齧ってみている。
そしてわかってきたのは、いわゆる伝統芸能というものの大半は大衆芸能がそのまま伝統的なものになっているということだ。
どんな芸術であれ、形を守るためにはその形にそった枠組みが必要なので、それを守る内に伝統化してゆき、はみ出せばそれは違うジャンルになり新しいものになってゆく。
そういったことを積み重ねて、現代の大衆芸能と過去の大衆芸能には厚みの差、重みの差が生まれる。
だがしかし。
この2つには本質的な部分で同じであり、ある意味現代の大衆芸能にも伝統的なものはしっかり継承されていると思う。
例えば、歌舞伎における美意識、止め絵のような画面の作り方等は完全にマンガやアニメに置ける美意識と同じであるように思う。
娯楽や芸能に関わることは本来的に日本人が好む美意識であり、本質的な部分は時代を越えて変わらないのではないかと思うのである。
ガワの部分には時代性やトレンドが反映されてしかるべきだが、伝統文化を好む人も、現代の大衆芸能を好む人も、そういった本質的な議論をそろそろ始めるべきだと、思う。
もちろんおれの様に、伝統や作法を“ガワ”とか言いきってしまうのは大変失礼なことである。
伝統文化と大衆芸能という言葉を英訳すれば、ハイカルチャーとサブカルチャーになるのであり、ハイカルチャーとはその本質だけでなく、作法や手法に意味性を見出すことも多々あるからだ。
そういった所を突き詰めてゆく人は絶対に必要だし、ぜひそのこだわりを後世に伝えて頂きたい。
しかし、他方では本質の美しさについて理解されなくなっているのも事実である。
ここらでちゃんとした人達が各々の側から出て話をして欲しいし、個人的にも話をしてみたい。
本質的に同じだというものは、例えば宗教もそうだろう。
それが時代性とそれぞれの正当性の主張によって互いに違う場所に向かってしまう。
おれからすればもったいない話だ。
現代に全くそぐわない説話を聴かせるより、より本質的な、過去も未来も変わらない部分を広めればもっと沢山の人の心に語りかけれるのではないか、と思う。
少々乱暴な意見を書かせてもらったが、やはり自分はアーティストであり、本質的な部分にどうしてもこだわってしまう。
大人の事情で書けなかった言葉を、歌詞の向こうから手繰り寄せようとしたり、インタビュー等から想像して本質を求めてしまう。
そういう人なのである。
だから伝統芸能と呼ばれるものの本質はなんなのか。
気になるのである。
人に茶の湯を道として整備させたその本質的な美意識とは。
人に華を生けさせたその本質的な美意識とは。
人の中にある、根源的な美意識を、求めてしまうのである。
自分の分野で言えば、ロックはこう、なんていう人には正直鼻白んでしまう。
それがロックかどうか、ってのはある。
けれど、ロックはこうだ、ってのはない。
ロックじゃないものはロックじゃないけど、じゃあ何がロックか、と言われても答えはない。
ありすぎてない。
ガワだけ聴いててもたどりつかない部分が、やっぱり本質だと思う。
それは音楽が生まれた頃からずっと流れてる部分。
それを語らずして何がロックか、と。
いやね。
もちろん音楽にもマンガにもアニメにも、ぜんっぜん全く芸術性とか本質的な部分のないものは沢山あるよ。
だって娯楽だから。
アートとして認識されることの多いエヴァンゲリオンとかでも、十分くだらなさが含まれてる。
先日亡くなった中村勘九郎さんも、よくアドリブやってたし。
でもまぁ、そういう部分もある意味本質だし、柔軟性や多様性を表してる部分だと思うしね。
とりあえず、そろそろそういう話を出来る場を作りたいなと思ってますよ、という話でした。
ここからは宣伝。
おれがやってるバンド、PSYCHO kui METALLICSのライヴの予定です。
このブログは趣味に走りすぎていて何をやっている人かまったく解らない、と言われましたので。
4/22 心斎橋club jungle
5/9 京都GROWLY
6/9 京都MOJO
詳細はオフィシャルホームページまで!
そしてわかってきたのは、いわゆる伝統芸能というものの大半は大衆芸能がそのまま伝統的なものになっているということだ。
どんな芸術であれ、形を守るためにはその形にそった枠組みが必要なので、それを守る内に伝統化してゆき、はみ出せばそれは違うジャンルになり新しいものになってゆく。
そういったことを積み重ねて、現代の大衆芸能と過去の大衆芸能には厚みの差、重みの差が生まれる。
だがしかし。
この2つには本質的な部分で同じであり、ある意味現代の大衆芸能にも伝統的なものはしっかり継承されていると思う。
例えば、歌舞伎における美意識、止め絵のような画面の作り方等は完全にマンガやアニメに置ける美意識と同じであるように思う。
娯楽や芸能に関わることは本来的に日本人が好む美意識であり、本質的な部分は時代を越えて変わらないのではないかと思うのである。
ガワの部分には時代性やトレンドが反映されてしかるべきだが、伝統文化を好む人も、現代の大衆芸能を好む人も、そういった本質的な議論をそろそろ始めるべきだと、思う。
もちろんおれの様に、伝統や作法を“ガワ”とか言いきってしまうのは大変失礼なことである。
伝統文化と大衆芸能という言葉を英訳すれば、ハイカルチャーとサブカルチャーになるのであり、ハイカルチャーとはその本質だけでなく、作法や手法に意味性を見出すことも多々あるからだ。
そういった所を突き詰めてゆく人は絶対に必要だし、ぜひそのこだわりを後世に伝えて頂きたい。
しかし、他方では本質の美しさについて理解されなくなっているのも事実である。
ここらでちゃんとした人達が各々の側から出て話をして欲しいし、個人的にも話をしてみたい。
本質的に同じだというものは、例えば宗教もそうだろう。
それが時代性とそれぞれの正当性の主張によって互いに違う場所に向かってしまう。
おれからすればもったいない話だ。
現代に全くそぐわない説話を聴かせるより、より本質的な、過去も未来も変わらない部分を広めればもっと沢山の人の心に語りかけれるのではないか、と思う。
少々乱暴な意見を書かせてもらったが、やはり自分はアーティストであり、本質的な部分にどうしてもこだわってしまう。
大人の事情で書けなかった言葉を、歌詞の向こうから手繰り寄せようとしたり、インタビュー等から想像して本質を求めてしまう。
そういう人なのである。
だから伝統芸能と呼ばれるものの本質はなんなのか。
気になるのである。
人に茶の湯を道として整備させたその本質的な美意識とは。
人に華を生けさせたその本質的な美意識とは。
人の中にある、根源的な美意識を、求めてしまうのである。
自分の分野で言えば、ロックはこう、なんていう人には正直鼻白んでしまう。
それがロックかどうか、ってのはある。
けれど、ロックはこうだ、ってのはない。
ロックじゃないものはロックじゃないけど、じゃあ何がロックか、と言われても答えはない。
ありすぎてない。
ガワだけ聴いててもたどりつかない部分が、やっぱり本質だと思う。
それは音楽が生まれた頃からずっと流れてる部分。
それを語らずして何がロックか、と。
いやね。
もちろん音楽にもマンガにもアニメにも、ぜんっぜん全く芸術性とか本質的な部分のないものは沢山あるよ。
だって娯楽だから。
アートとして認識されることの多いエヴァンゲリオンとかでも、十分くだらなさが含まれてる。
先日亡くなった中村勘九郎さんも、よくアドリブやってたし。
でもまぁ、そういう部分もある意味本質だし、柔軟性や多様性を表してる部分だと思うしね。
とりあえず、そろそろそういう話を出来る場を作りたいなと思ってますよ、という話でした。
ここからは宣伝。
おれがやってるバンド、PSYCHO kui METALLICSのライヴの予定です。
このブログは趣味に走りすぎていて何をやっている人かまったく解らない、と言われましたので。
4/22 心斎橋club jungle
5/9 京都GROWLY
6/9 京都MOJO
詳細はオフィシャルホームページまで!