さとさまの日常

京都のROCK BAR DIRTオーナー、さとさまの日々の覚え書きを書き記す。

ホワイトデー。

ホワイトデーとは、バレンタインデーと対を成すイベントである。

バレンタインデーに何もなかった人にとっては関係のない日である。

一体何がどうホワイトなのかは知らないが、とにかく昨今では女子から無差別に配布される義理チョコに対して義理ホワイトな何かを返還しなければならない日なのである。



健全な社会生活を送っている男子女子の皆様ならおわかりの通り、バレンタインデーはとりあえずお世話になってますので、など渡す事が常識的だという圧力があり、ホワイトデーには貰ったなら義理だろうとなんだろうと返すのが常識、という圧力がかかっている。

お菓子業界の思惑以上に、既に社会生活においてはやってしかるべき行事となっているのだ。

21世紀に入って久しいが、今や年賀状すらメールで済ますような世の中になっているのに、何なのだろうこの社会的強制性は。



バレンタインデー/ホワイトデーは基本女性サイドから仕掛けられる。

結果男性は後手後手に回ることになるのだ。

男性は貰ったモノの値段に応じなければならない、という社会的強制性に曝されるのだが、常にそれは女性優位な交渉になる。

しかし世の中には社会的強制性に曝されない男性もいる。

それはイケメンのモテ男子達である。

彼らはヒエラルキーの頂点におり、女子達は自己犠牲精神に近い動機によってバレンタインデーを仕掛けるのだ。

結果自身の送ったモノと返還されたモノが不釣り合いであっても、その男子が持つ優位性によって問題は発生せず、むしろ好印象を持って迎えられることとなる。

バレンタインデー/ホワイトデーとは、腑に落ちないがそういうモノなのである。



こういったモノをやりとりする、とい行事が違和感なく日本社会に受け入れられているのは、古来よりお歳暮やお中元といったイベントを日本人が好んでいたということが有ると思う。

何かにつけてモノを贈るのを好む民族なのではないだろうか。

感謝の現れであったり、好意の現れであり、体裁を整える手段でもあるし、打算的な要素もある。

そういったやりとりで日本人はコミュニケーションを量るのではないだろうか。

直接的に何かを伝えたりするのはめんどうである、と感じる民族なのではないかと思う。

そこらの感覚に日本的というフィーリングがある気がする。



バレンタインデーにしろホワイトデーにしろ、受け手は送る側の意図を読み取っている。

その贈り物が何を意図しているのかを瞬時に察知出来る。

モノ自体からもそうであるが、その人の経済状況や社会的地位、もちろん言葉や表情も鑑みて、その贈り物の持つ意味を察知できるのだ。

クリスマスや誕生日であっても同じである。

それに対する返答もしかり、である。

おもしろいのは、日常的な慣習の中でもそういった細やかな交流が生まれるという点だ。

人と人の関係性は、常に日常の延長線上にあるということだ。



しかしておれがいったい何を言いたいかと言えば、おれは別に対してモテるわけでもないし、バレンタインデーに山程何かを貰っている訳ではないのに、色んな人間関係の中で貰うチョコを数えてみるとそれなりの数に達する、ということなのである。

これはもう自分の人間関係が広がるにつれて覚悟するべきことなのだなぁ、ということである。

その覚悟を固めるために、システムを考察し、パターンについて思いを馳せ、最終的に文化としての側面から美化してみたりしたのである。

みなさん僕はチョコレートが大好きです。




ちなみに明日は心斎橋club jungleにてPSYCHO kui METALLICSライヴします。

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